My Cinema Talk World: 元少年A 著 『絶歌』発売とメディアでの反応に思う

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2015/06/12

元少年A 著 『絶歌』発売とメディアでの反応に思う


1997年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件の加害者が執筆した本、『絶歌』が刊行された。
著作名義は「元少年A」。
AMAZONなどでは、すでに完売のようで予約待ち状態になっている。ニュースでそれを知った時、何とも表現しがたい複雑な気持ちになった。
“元”ということは、遺族に罪の償いを終えあの事件を過去のものとしてしまったのか。すでに別な人間として新たな生活を送っているのだろうが、何かが喉につかえているようにすんなりと入ってこないのが本当のところだ。
あのような所業を14歳の少年に起こさせた根元は何だろう? 当時、生きてきてそれまで見聞きしたことがないほどの凄惨さ恐ろしさに震えながらも、どうしても事件の背景を知りたいと思った。それは今も揺るぎない。
筆者にとっても少年Aの所業から受けた衝撃はあまりにも大きすぎて、まだ折り合いがつけられないでいる。

先月被害者の父親 土師守さんの元に、加害者(元少年A)から弁護士を通じて謝罪の手紙が届いたニュースも報じられたばかりだ。
内容こそ明らかにされていないが、土師さんは「以前に比べて(手紙の)内容に変化がみられる。彼なりの想いが綴られている」と述べていた。
そして、今回の著書刊行に際して「(手紙の時の)被害者親族の言葉を踏みにじる行為、上辺だけの謝罪だったのか?すぐに本を回収してほしい」と不快感をあらわにした声明をだしている。

『文藝春秋 2015年5月号』で「判決文」が掲載されたばかり

「元少年A」は、今回発売される『絶歌』を綴りながら、“あの時の14歳の少年”の所業を冷静に見つめ直すことができたのだろうか。
先月、土師さんに綴った想いは本心だったのか...おそらく刊行の報告をすれば、当然のことながら差し止めになってしまうから手記については何も報告しなかったのだろう。
そもそも、今回の本は加害者の生い立ちと内面にもおよんでいるのか…いずれにしても犯行時の話に及ぶことは避けられないし、遺族側にしてみれば事件を反芻することを余儀なくされるのだ。

先日発売された『文藝春秋 2015年5月号』には、神戸の事件の少年審判決定全文…「判決文」にあたる文書…が掲載されていた。筆者の勝手な想像だが、今回の『絶歌』発売を事前に知っていての出版社側(文藝春秋側の)の行動だったのかもしれない。
文藝春秋 5月号は発売直後に読んだが、少年Aについて執筆されている既存の書物ですでに得た情報がほとんどだった。
しかしながら、家庭の中での少年Aの孤独感と不自由さ、彼の両親のどこかズレた思考に改めて違和感を感じるばかりだった。
どの書物かは忘れてしまったが、無惨な遺体となって戻ってきた我が子の遺体確認ができなかった被害者母親に
「難儀やなぁ、我が子に最後くらい会うてやれないなんて」
という言葉を発したといわれる、Aの母親の特殊性がずっと心に留まっている。

大部分が出版に否定的。ただいま炎上中

1997年6月28日。
僕は、僕ではなくなった。

酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年Aが18年の時を経て、自分の過去と対峙し、切り結び著した、生命の手記。

「少年A」――それが、僕の代名詞となった。
 僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。
それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、
不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。

本書の紹介文だ。
「生命の手記」? 何か違う...軽々しく「生命」だなんて、非難の的ではないか。
どう読んでも、売るための虚しい言葉の羅列。生命を奪ったものが「生命の手記」とは、やはり読むまではキャッチコピーとしか取ってもらえないだろう。
出版社側は、出版に際しもっと細かいことに配慮すべきだ。
「売る」ことだけを念頭に置いていては聴衆を余計に煽り、炎上に油を注ぐだけだ。

『絶歌』刊行がネット上に流れると同時にネガティブな意見が飛び交った。

“ 今更読みたくない ”
“ ○○部売れれば、印税が何千万入る。Aは一生遊んで暮らせる ”
“ 出版社は悪どい ”
“ 不買運動しよう ”
“ 本名名義で出版しろ ”

などの発売反対側の意見が大多数。
呆れたことには、執筆した加害者の今現在の名前までツイッターでツイートされる始末。
買う、買わないは本人の自由だ。どうか、感情的な行動は控えてもらいたい。
なぜ、一般の人たちが「元少年A」を憎まなければならないのか。
同調圧力で感情任せに無責任な発言をするのは控えるべきだと思う。
出版に反対しながら、いちはやく本を手に入れて内容について批判している人たちにも違和感をおぼえている。
あげくは、あとがきを全文掲載していちいち言葉尻りをとらえて批判している。肝心な本文に付いては「ポエム」と批判しているだけ。
本文を読んでいるかすら疑わしい。

筆者も本日『絶歌』を手にする。
被害者側の気持ちに立ってみれば、あの事件から今までの苦しみは想像にあまりあるものだっただろう。
だからこそ今、酒鬼薔薇聖斗を崇めるような青少年犯罪が起こっている今、第二の酒鬼薔薇を世の中に生み出さないように事件にいたるまでの道筋や背景をしっかり知っておくことは今後も重要になってくる...そう思っている。
現在、加害者の生い立ちや被害者側の手記についての多くの文献が存在している。事件以来、筆者は折にふれてそれらの本を読んで、少年Aがどのようにして出現して行ったかを考えもした。
「性衝動に内在する破壊行動」が残忍な殺人に至らせる経緯、そしてそれは遺伝的なものが作用しているのか。もう一歩踏み込んだ内容の書物が存在してもいいと思った。

確かに、彼(元少年A)は、あの事件を起こす数年間は「人間」ではなかった。
内面が徐々に何かに支配されてしまっていた ―― 他者はすべて「畑に転がる野菜」と見なし、それらは叩いても潰してもかまわないと平然と思っていた。
「最大の敵は自分自身だ」と自己分析しながら、それ(魔物とよんでいる)を甘んじて受け入れてしまったがために彼は最悪の事件を起こしてしまったのだ。
14歳だったあの時の少年Aには、自分だけが唯一神とか悪魔に許された存在だという傲慢さが見え隠れしている。
彼が綴った「懲役13年」は、何度読んでもそういう文章だ。
家族を切り捨ててからというもの、少年は心に潜む破壊への欲求を持て余すようになっていった。

「男性が書いた手記を見て、事件前後の彼の心境について、社会がもっと知るべきだと思ったので出版を決めた。本は本人の手紙を添えて遺族に届けたい」
初版は10万部を印刷。男性とは印税契約を結んでいるという。

(ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150610-00000242-sph-soci より)


『絶歌』

第二の酒鬼薔薇を根絶するような内容であってほしい。
彼はどのようにして悪魔のような所業に至ったか、今こそ自らの口で包み隠さず語るべきだ。
己の利益のためではなく、贖罪のために書いた本であることを祈るばかりだ。


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