前回に引き続きまして、今回は自分なりの解説を綴っていきます。
難解な本作、解説とはいっても作り手が意図した内容を完璧な説明はできません。
私がこの映画を見て思った通りのことをつらつら書き綴っているということをご了承下さい。
「それは違うんじゃない?」という意見は絶対あります。承知の上でございます。
おそらく、この映画を1度だけ鑑賞してすぐ納得する方がいれば...ハッキリ申し上げて貴方はすごい!
私、3回見て「ああ、こうなのかな?」って思った程度で理解したわけではなく、頭の中はまだ疑問符が山積みでした。
だからこそ繰り返し見て楽しむ作品であり、あれこれ考えるのが楽しくるというワケです。
時間があるときは、是非DVDを繰り返し見て新しい発見をしましょう♪
映画冒頭。
主人公が山道に倒れています、その傍らには自転車。
起き上がり眺めるグラデーションが綺麗な山々、絵に描いたような景色。
ずいぶん早朝のように見える。
起き上がりなんとも意味不明な笑いを浮かべる青年。この笑いの意味は一体?
そしてバックに流れる音楽は、すでにエンディングを迎えているようではないか。
青年はこの場所にもう一度戻ってくることになる、その時は車で。空は暗雲が立ちこめ割れて落ちてくる様相を呈していた…がそんなことを知るよしもなく軽快に自転車を漕ぎながら山道を駆け下りる、主人公ドニー・ダーコ。(バックにはエコバニの「Killing moon」が流れています)
時代は1988年。ちなみに日本は平成になる前の年です。
(わたくしごとですが、とても思い入れの深い年です。)
アメリカではちょうどブッシュ(共和党)とデュカキス(民主党)との大統領選挙がTVを賑わしておりました。
マサチューセッツ州知事で評判のよかったデュカキス(この映画の舞台はマサチューセッツ、ドニー一家もマサチューセッツに住んでいる。)にドニーの両親が批判的なのが面白い。ネガティブキャンペーンの影響だと思います。
以下ネタバレありです…未鑑賞の方はご注意下さいませ。
28日6時間42分12秒で世界は終わる
映画の話からはずれますが、「1999年に何らかのかたちで世界が終わる…」その頃の私は3割くらいはそんな思いを頭の片隅に置いていました。
1999年までは、後悔しないようにワイワイ楽しくやろうなんて思っていました。
今、考えてみれば笑ってしまいますけれど、本当の話です。
その割に、何が起こるのかとか深く考えていなかったんですけどね。
ドニー・ダーコは1988年10月2日になったばかりの深夜に不気味な声に導かれて寝室から出て行きました。
その声の主は、なんとも不気味なうさぎ。本物ではなく人間が着ぐるみをきたような、しかも顔はドクロの銀色のうさぎです。
うさぎは言うのです
「あと28日と— 6時間と— 42分と— 12秒。それが世界の終りまでの残り時間だ」と。
ゴルフ場の芝生の上で起こされた彼の腕には「28:06:42:12」という落書きがありました。
”世界の終りと”は何を意味するのでしょうか?
いきなり「あと28日で世界が終わる」と言われても何をすればいいのやら。
確実に言えることは、親とか友達にそれを言ったらどう考えても気が変になったとしか受け取ってもらえないでしょうね。
彼に「世界が終わる」と告げたのは奇妙な(むしろ不気味な)うさぎです。この映画でドニーを不可思議な空間に導くものがこの登場人物(?)。
まずは「不思議の国のアリス」を連想する人がたくさんいると思います…私も同じです。それと、アレです…「マトリックス」の白いうさぎが連想されますね。ここまで考えるともはや「厄介なこと」や「災い」を喚起する存在であると気づきます。「マトリックス」も、現実世界と仮想世界を行き来するお話です。
そう、ドニーもうさぎの出現以降時間軸がアレしてしまうんです。
ここがまた意見が分かれるところでもあると思います。あくまでもここでは私の個人的主観を書かせてもらいます。
ドニーは現実とは別の仮想世界に入り込んでしまいます。
10月2日、ドクロうさぎの声でベッドから抜け出し気がつけばゴルフ場の芝生の上に寝ていたドニー。
帰宅した彼を待っていたもの。ダーコ宅に飛行機のエンジンが落下しドニーの部屋を直撃でした。両親、姉、妹は逃げ出し家族全員が無事で、帰宅した彼をホッとしたというような笑顔で迎えます。
この時から彼と彼の周囲が変わって行くのでした。そうです、この場所こそ現実の世界と平行して存在するなぞの異次元空間です。
理解ある両親。“孤独ではない”日々
ドニーの部屋を飛行機のエンジンが直撃したこの日からドニーの生活が以前と変わっていきます。なんといっても両親が10月2日以前の様子とは一変しています。薄気味悪い笑いを浮かべたドニーの父親が理解ある人間になっています。(ドニーの姉、エリザベスが朝どこかに出かける時に芝生の上の枯れ葉とかを吹き飛ばすような機械を我が娘に吹きかけ喜んでいたシーンでなんだか気持ち悪いオヤジだなと思っていたのですが。。。)母との関係も一変。以前は言い争いの末母親を「クソババァ」と罵るほどだったのが、心に暗い闇を抱えている息子を母親も親身に心配するようになります。ドニーが罹っている精神科医のサーマン先生。薬物療法より催眠療法やドニーの話をよくきいて彼の心のうちを引き出そうとしています。(現実社会では冒頭のダーコ家の食卓での会話から予測するに精神安定剤の量を増やすくらいの治療しかしていなかったと思われます。)実際にドニーの前に「フランク」と名乗るあのうさぎが現れてからドニーを含め、周囲の人たちが“いい人”になっているのです。
学校生活でも、悪ふざけや冗談を言い合う仲間がいて転校して来たかわいい女の子グレッチェンにも気に入られています。ドニーも一目惚れしたようすです。理解ある先生もいたりしてドニーは孤独ではありません。みんなに虐められている太った女の子シェリータをかばう余裕さえ見せます。
ん?主人公に都合の良いこの進行具合。またまた「あれれ?」というカンジがしますよね。
私が過去に書いた記事だと「マルホランド・ドライブ」や「ルル・オン・ザ・ブリッジ」で説明済みのこの感覚。
破壊と創造
ドニーは「恐怖克服セラピー」を主催する人物、ジム・カニングハムに敵対心にも似た感情を向けます。なぜでしょう?学校の授業でもカニングハムのビデオを見せ生徒に彼の思想を押しつけてきます。彼のセラピーで使用しているビデオではこういっています「私は鏡の奥に映っているもの、その中に”自我”をみたのです」と。正しいことを語っていても新興宗教にも似たなにかが感じられます。私はこの言葉がドニーを逆なでしたのだとなんとなしに感じました。
ドクロうさぎ(フランク)はドニーの前に現れては次々に謎の言葉を残していきます。
今のアレしてしまった世界でよい人間になりグレッチェンと付き合ったりと充実した毎日楽しい生活を送る一方で、ドニーはうさぎに操られているかのように学校の水道管に斧を振り下ろし水浸しにしたり、ジム・カニングハム邸に火をつけたり破壊的行動に走ってしまいます。
一方、創造的な言葉もうさぎは残しています。「お前はなんでもできる。タイムトラベルを知っているか?」と。
うさぎが現れた時に見せるドニーの険しい表情も意味がありそうです。ドニーは言いなりになりつつも鏡の向こうのうさぎに対してナイフを突き立てたりさえします。ネガティブな考えに必死に抗ってもいたのです。
頭の中で渦巻いていた破壊と創造...ドニーの潜在意識として存在して2つがドニーの姿と鏡の向こうにいるドクロうさぎ(フランク)として戦っていました。
死神オババとタイムトラベル
ドニー・ダーコの近隣に住んでいる人物で死神オババという不思議な老婆が登場します。いつもヨタヨタと自宅のポストまで歩いて行き、郵便物が来ていないかを確認する行動を繰り返しています。近所の人々から「変な老人」と思われている存在です。ある日、ドニーの耳元で「生き物はみな孤独で死んでいくんだ」という言葉をささやきます。彼は物理の教師モニトフ先生にドクロうさぎが口にしたタイムトラベルについて質問した際に「参考までに…」とある本を手渡されます。「タイムトラベルの哲学」というタイトルがついた本の著者はロバータ・スパロウ(死神オババの本名)の名がありました。
ドニーは死神オババが書いた本と出会ってからかなりインスパイアを受けたようです。フランクが死神オババに引き合わせたとさえ考え始めるドニーはタイムトラベルを実現しようと奔走し始めます。自分たちのデロリアン(「映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に出てくるタイムトラベルできる車)を探すかのようです。自分とグレッチェンで「世界の終り」が来る前に別な時空に逃げようと考えたのでしょう。(グレッチェンも訳アリの人生を送っていました、小さい頃から父親の暴力で悩んでいてよい思い出などはない女の子でした。)
そして迎える「世界の終り」
うさぎが告げた残りの日時に近づき、ドニーは焦りだしています。国語の教師カレン先生が言った最も美しい英単語”CellarDoor(地下室の扉)”も彼の中で気にかかっているよう….時間旅行が出来る入り口と捉えていたのかもしれません。ドクロうさぎが「あと28日...」と言ったその日(10月30日)とその前日はドニーの身にさまざまなことが一気に降り掛かってきます。母親はロスで開催されるドニーの妹のダンスコンテストの付き添いで留守にしていました….当初はファーマー先生が同行するはずでしたが、ドニーが放火した事件の際にジム・カニングハムが別件で罪に問われ(児童ポルノ関連の出版物が火災後の家から発見されカニングハムは逮捕された)「恐怖克服セラピー」信者のファーマーが罪状認否の日に釈放運動に立つことになったので、その代わりにドニーの母がLAに同行したのです。父親も出張で不在なのでドニーの母親は心配ながらも役を引き受けます。
ドニーの姉がハーバードに合格したというのでささやかにパーティをやることになりました。(実際、全然ささやかでもなかったのですが)
姉の友人を呼んでどんちゃん騒ぎ。そのさなかにやって来たグレッチェンは家に彼女の父親がやってきて面倒なことが起こった模様、そんな中で二人は自宅の2階で目眩く時間を過ごします。
その余韻も覚めやらぬまま、ドニーは「世界の終りから逃げる為に入口に向かわねば!」とばかりに頭にあった”CellarDoor(地下室の扉)”をめざし死神オババの家にグレッチェンと向かいますが、またまたひと騒動に巻き込まれ目の前でグレッチェンが車にひき殺されてしまったのです。車から下りてきたのは、うさぎの着ぐるみを着た姉のボーイフレンド フランクでした。世界の終りとはグレッチェンの死だった...?
彼はグレッチェンを抱きかかえ車に乗せ...ふと見上げると自宅上空に黒い煙が見えますーーーー黒煙はロスから戻る母親と妹が乗っている飛行機から出ているものです。
凄い勢いで車を走らせ冒頭のあの山道に向かうドニー。焦りながら車を走らせるこのシーンはまさに映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」っぽい。空は黒煙が渦巻き風景はまるで地獄図、それこそ空が割れて落ちてくるような恐ろしさ。
「もし過去に戻れて辛い思い出を楽しいものと交換できたら」
車に乗り込むと眠るように息絶えているグレッチェンの声がドニーには聞こえます。それは以前彼に言っていた言葉でした。
「帰ろう」
ドニーは呟き再び我が家に車を飛ばします。自室のベッドに横たわり歓喜の笑い声をあげています...まるで赤ん坊が胎内にいるときのように丸まって横たわる彼。
1988年10月2日、飛行機のエンジンが民家に落下し、ドニー・ダーコという1人の少年がその犠牲となりました。
筆者なりの真相をまとめてみる
10月2日という日にドニーが落下して来た飛行機のエンジンの下敷きになりこの世に存在しなければ、グレッチェンと出会うこともなかったし彼女の死もなかった。また、ジム・カニングハムのポルノ事件も存在しなくなるので彼の母親と妹が飛行機事故の犠牲になることもなかったでしょう。
ラストで流れるTears for Fearsの「Mad World」とともに、ダーコ宅から白いシートを掛けられたドニーの遺体が運び出されるシーン。
嘆き悲しむ家族の姿….少し離れた場所に自転車をとめてその光景を見ている女の子はグレッチェン。
果たして、本当の名前もグレッチェンであったかどうかすら分かりません。
グレッチェンが会ったこともないドニーの母親に手を振ると彼女も手を振り返し微笑みを浮かべます…その目は何か同じ気持ちを共有している者同士といった視線です。異次元でのわずかな記憶の名残りなのでしょう。
母親だけが、涙を見せるでもなく淡々とタバコを吸っているのもこれまた不可思議さを醸し出しています。
ドクロうさぎの姿は、姉のボーイフレンドであるフランクが描く絵からドニーがインスパイアされ創造からできた生き物だと思います。以前、フランクの描く絵をドニーが見せてもらったことがあったとも考えられます。
ラスト近くのシーンでフランクの部屋の様子が映り、そこにはフランクが描いたと思われるうさぎのドローイングとシルバーのオブジェのようなものが置かれています。
些細な充足感
やはり感じたのは、個人レベルの小さな出来事も政治的な一大事も1人の人間の振る舞いでその後の事象を揺るがすものになるということです。ここにも「バタフライ効果」ですね。1988年の大統領選挙で、デュカキスが当選していたら?湾岸戦争は起きていたのでしょうか?そう、歴史も大きく変わったことでしょう。
近隣の人々にしか名前も知られていないドニー・ダーコという青年が旅客機の墜落事故にあって亡くなったことで、彼の周囲は変わりました...大統領選とはレベルは違えども。
この映画に惹かれるのはなぜか。「世界の終り」を恋人とともに回避するため奔走していた主人公が「本当の世界の終り」は「自分の死」であることを悟るという残酷、そして家族や恋人を救う為にみずから「死」を受け入れるという行動です....幼い頃飼っていた犬がポーチに潜って死んだというドニーが話した逸話のように静かに。
運命の存在を信じるか否かにかかわらず、自ずと「死期」を悟り、死に場所に落ち着く本能的な何かに従い行動するものなのでしょうね。
人は自分が小さなことを他者にしてあげたという「ひとりよがり的満足感」や何か「納得いくように行動できた」という充足感で毎日を生き延びている、そのように思います。納得いく一日を過ごせた日は、安心して床につくことができます。
10月2日の朝、真実を知り自分のベッドに戻った時のドニーの無邪気な笑いはそれに似たような気持ちだったからでしょう。
今、小学生でさえ軽々しく「死にたい」とか「死ね」などと口にするのを聞きます。10代でみずから死を選ぶ人たちは自らの死を受け入れた上で死んで行くのでしょうか?死がどのようなものかわからずに死んでいくのであったなら....悲しいですね。
最後に
この映画を「青春映画」と観ますか?「SF」映画?
それとも「サスペンス」??
うーん。ひとくくりに納めてしまうのはしまうのは難しい映画かもしれないです。
リチャード・ケリー監督、インタビューで尊敬する監督を多数挙げていました。
所々に好きな監督へのオマージュという風合いのシーンがいくつかありました。
例えば、ジム・カニングハムのショーでのスパークル・モーションと称した少女たちのパフォーマンス(DURAN DURANの「ノトーリアス」の曲にのって踊るシーン)の場面、今から何かが起こるのではないかというドキドキ感とその場のライティングの色合いからブライアン・デ・パルマの「キャリー」の例の豚の血のシーンのイメージで創られていることが伝わってくるし、ラスト近くでドニーが道路を凄い勢いで車を走らせるところは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を喚起させられました。
(まだ、何か書きたかったのですが...思い出したら追記します)
長くなりました....ここまで読んでくださった方に感謝です!